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Franco et O.K. Jazz (1956-89)

'Simaro' Lutumba Ndomamueno 'Masiya', guitar (1961 & 1963-)
'Carlito' Lassa Ndombasi, vocal (1989-)
Lola 'Checain' Djangi, vocal (1963-)
Josky Kiambukuta, Londa, vocal(1973-)


Artist

SIMARO MASSIYA LUTUMBA

Title

MAYA



Japanese Title

国内未発売

Date 1984 / 1985
Label SOLFEGE/NGOYARTO NGO 150(FR)
CD Release 1998
Rating ★★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 シマロ、本名シモン・ルトゥンバ・ンドマヌエノ・マッシヤ (Simon) Lutumba Ndomanueno Massiya は、フランコよりちょうど8ヶ月年少の1939年2月生まれ。ミクラ・ジャズ、コンゴ・ジャズを経て、61年、O.K.ジャズに参加した。しかし、このときはO.K.ジャズ初のヨーロッパ(ブリュッセル)録音のために召集されたサポート・メンバー。正式加入は63年である。

 時折り眼鏡をかけ、飾り気なくて飄々とした風体のかれは、フランコ、ヴェルキスヴィッキーとは対照的に地味で目立たない存在だった。映像でみてもステージの前面に出てくることはめったになく、後方でニコリともせず黙々とリズム・ギターを弾き続けている。

 このいかにも真面目で実直そうな性格にフランコは厚い信頼を寄せた。このことを物語るのが1970年のクァミー再加入の是非をめぐる意見対立のとき。かつてフランコを裏切り罵ったクァミーをふたたびメンバーに迎えてもよいとするシマロと拒否の姿勢を崩さないヴィッキー。結局、フランコはシマロの意見を容れた。直後、ヴィッキーは脱退。このとき、シマロは名実ともにO.K.ジャズのナンバー2になった。

 しかし、かれはフランコに絶対忠誠を誓った部下というわけではなかった。ヴェルキスが在籍中にフランコの許可なくレコーディング・セッションをおこなったときには一味に加わっていたし、ファンファンのときもそうだった。それにもかかわらず、かれがO.K.ジャズを去らずに済んだのには、金銭欲や名誉欲より、アーティストとしての創作欲に駆られての行動とフランコがみていたからではないだろうか。性格や人望の高さに加えて、なによりもかれのアーティストとしての才能をフランコは惜しんだとみる。

 シマロといえば“詩人”とあだ名されるように、ギタリストとしてよりはソング・ライターとしての名声が高い。
 現在発売されているCDは、録音が80年以前のものについてはほとんどが当初シングルとして発表されたものをまとめた編集盤である。それらのなかにかれの楽曲は(ジョージ・ハリスンに似て)1、2曲、多くても3曲程度収録されているにすぎない。にもかかわらず、端正でエレガントなかれの作品は当初からキラリと光るものがあった。

 O.K.ジャズでレコーディングされた最初の作品は、たぶんFRANCO ET L'OK JAZZ (MUJOS, SIMARO ET KWAMY) "1960/1961/1962"(AFRICAN/SONODISC CD 36511)収録の'MADO OBOYI SIMARO?'FRANCO ET L'OK JAZZ VOL.3 - 1961/1962(AFRICAN/SONODISC CD 36508)収録の'MBOKA NINI OKENDE''NANI AKUNSIMDILLA MUANA''YAMBA LEO' あたりだろう。キャッチーなメロディがなるほど“らしい”が、本領発揮は60年代なかばから。個人的なお気に入りは、めずらしいオルガンのはいったロマンティックなラヴ・バラード'REGINA REGINA'"CESAR ABOYA YO/TONTON 1964/65"(AFRICAN/SONODISC CD 36588)収録)と、トランペットが印象的なシャボン玉のように繊細で美しいボレーロ'G.G.YOKA'"1966/1967"(AFRICAN/SONODISC CD 36554)収録)。

 そして、出世作は71年に発表されたラヴ・バラード'MA HELE'"1968/1971"(AFRICAN/SONODISC CD 36529)収録)。オリジナルは、ヴェルキスとのセッションのさいに書かれ、フランコが権利をヴェルキスから勝ち取って以降は長くおクラ入りになっていた。繊細でメロディアスな前半と、後半セベンでのフランコのハードでメタリックなギターとのコントラストが絶妙で、O.K.ジャズに新しい境地をもたらしたといわれる。

 しかし、かれの“詩人”としての名声を一躍世に知らしめたのは、73年発表の'EBALE YA ZAIRE' とこれにつづく'CEDOU'(ともに"1974/1975/1976"(AFRICAN/SONODISC CD 36520)収録)、そして翌年発売の大ヒット曲'MABELE (NTOTU)'"1972/1973/1974"(AFRICAN/SONODISC CD 36538)収録)だろう。
 'EBALE YA ZAIRE' は、「ザイール川」の意で、船で去っていった恋人への未練をつづった悲歌(エレジー)。'CEDOU' では、人間関係とひとの一生を寓話仕立ての歌にし、リンガラ語で「大地」を意味する'MABELE'(フランコの出身部族のキコンゴ語では'NTOTU' )では、ろうそくの炎の明滅に死生観を重ねた。そんなかれの詩的世界をいかんなく表現できたサム・マングワナという歌い手を得たことも大きかった。

 マングワナとは、かれがO.K.ジャズを辞めてソロ活動していた82年に再会セッションをおこなっている。そのときレコーディングされた'FAUTE YA COMMERCANT'"FRANCO-SIMARO-SAM MANGWANA & LE T.P.O.K.JAZZ 1982/1985"(SONODISC CDS 6854)収録)は、シマロの代表的な名演となった。マングワナの声との相性はよほどよかったとみえる。

 時代は下って90年代なかば、みずから率いるO.K.ジャズ直系のオルケストル、バナOKのアルバム"BANA BA NZAMBI"(BABI/SONODISC CD 65057)でシマロは過去の作品17曲をメドレーにしてリメイク。その冒頭にあったのが上記4曲だった。このうち3曲でマングワナがゲストとしてリード・ヴォーカルをとっている。

 2003年にエディポップ/ンゴヤルトからかれの音楽キャリア40周年(ホントはO.K.ジャズ正式加入から通算)を記念して、O.K.ジャズ時代の作品を集めたアルバムが全4集でリリースされた。'MABELE (NTOTU)' の別バージョンや初復刻もあったが、大多数は復刻済みだし完全復刻でないのも不満。曲の選択や配列に根拠が認められないし、データや解説もほとんどなしというお粗末な編集。意義があるとすれば、O.K.ジャズ時代のシマロ作品がまとめて聴けたということぐらいか。
 上にとりあげたシマロ作品は、O.K.ジャズ・デビュー曲と'FAUTE YA COMMERCANT' の2曲を除けば、第1集"THE VERY BEST OF POETE SIMARO MASSIYA LUTUMBA VOL.1/ MABELE (NTOTO)"(EDIPOP/NGOYARTO NG 0101)に収録されている(ただし'MABELE' は別ヴァージョン)。

 ところで、シマロはフランコとおなじく、ピックを使わずコンゴ伝統の人差し指と親指でギターをつま弾く。アコースティック・ギターを抱えて歌を口ずさんでいる写真をみるにつけ、どうしても古賀政男と重なってしまう。“望郷”“哀愁”“別れ”“未練”。シマロの書く作品はコンゴの演歌と呼ぶのがふさわしい。そんなシマロ演歌の最高傑作といわれるのが本盤収録の'MAYA' である。

 78年10月のフランコ逮捕がひきがねとなって、80年、フランコとO.K.ジャズの主要メンバーは大挙ヨーロッパへ移住する。しかし、シマロはキンシャサに残る道を選んだ。一説にはシマロが飛行機ぎらいだったからともいわれる。ここにO.K.ジャズはフランコとジョスキーのヨーロッパ組と、シマロのキンシャサ組のふたつが存在することになった。

 フランコはさっそくみずからのレーベルVISA1980(のちにエディポップ)を起ち上げると、LPの体裁で次々と新作をリリースした。レコーディングは技術にすぐれ設備が整ったヨーロッパのスタジオでおこなうことが多くなった。そのためシマロがレコーディングに参加する頻度は減ったはずだ。
 そんななかにあって、82年3月にキンシャサでサム・マングワナとおこなった、前述の'FAUTE YA COMMERCANT' を含む“コオペラシオン・セッション”は、この時期のシマロの好調ぶりをうかがい知れる代表的名演といえよう。

 あくる83年、転機はおとずれた。ザイールの隣国コンゴ〜ブラザヴィルに24トラックの最新の録音設備をそなえたスタジオIAD (Industrie Africaine de Disque) がオープンしたのである。
 'MAYA' のセッションは、翌84年、IAD でおこなわれた。このとき、シマロはフランコの承認を得ていなかった。おまけにレコードはフランコのレーベルからの発売ではなく、しかも悪いことにフランコのニュー・シングル'TU VOIS?' 通称'MAMOU'"FRANCO CHANTE 'MAMOU' (TU VOIS ?) 1984/1985/1986"(SONODISC CDS 6853)収録)と発売時期が重なってしまった。さらに、シマロに続けとばかりに、ギターのパパ・ノエル(おそらく'MAYA' セッションにも参加)までがIAD でソロ作をつくった(全曲 PAPA NOEL "BEL AMI"(STERN'S AFRICA STCD 3016)に復刻 )。ここからシングル・カットされた'BON SAMARITAN' もヒット。

 このことを知ってフランコは当然のごとく怒った。しかし、'MAYA''BON SAMARITAN' がその年のベスト・ソング第1位と第2位を独占、シマロがベスト・コンポーザーに選出されるに及んで、さしものフランコもかれらを許すほかなかった。

 シマロとパパ・ノエルの2曲でリード・ヴォーカルに抜擢され、その年の新人賞を受賞したのが当時23歳の“カルリート”'Carlito' Lassa Ndombasi。マエストロ・アライが“ビロード・ヴォイス”と名づけた繊細で女性的なウラ声は、魔性の女マヤへのマゾヒスティックな愛にもだえるダメ男の心の内を見事に表現している。マッチョなフランコ−マディルのラインとは対照的でおもしろい。

 ここまで来てシマロを古賀政男に喩えたのはちがうような気がしてきた。このナルちゃんリリシズムは、むしろ小椋桂の世界に近いかもしれない。ふつうならば、まったり感でベトベトになるところだが、そうならないのはバックにメリハリがあるから。
 ウッドブロック、コンガ、シンバルとベードラ主体のドラムス、ベースからなるキレのいいリズム・セクションに、ドライで透明感あふれるギターがリフを刻む。間奏部では、フランコのO.K.ジャズのようなギター・ソロはなく、代わりにソプラノ・サックスのさわやかなソロがはさまれる。約10分間、カルリートのつぶやきと歌でほぼ終始するものの、よくツボを心得たアレンジのおかげで長さを感じさせない。

 この'MAYA' から'BANGAKA BASI YABATO'「女たちの恐れ」までの4曲が当初1枚のLPとしてリリースされた。
 3曲目の'AFFAIRE KITIKWALA' は、'MAYA' とおなじくカルリートの悩ましい“ビロード・ヴォイス”をフィーチャーしたアップテンポな曲。対するに、2曲目の'TSHIALA' と4曲目の'BANGAKA BASI YABATO' は、完璧なコーラス・ワークとソロとの執拗な交感(前戯)を経て、めくるめくセベン(絶頂)へと至るO.K.ジャズ得意のパターン。

 このセッションでサウンドのキイを握っているのは、「チャカポコチャカポコ」とせわしなくツッコミ気味にはいるウッドブロックだと思う。これに続くのが、おそろしくキレのよいドラムス、ファンファーレのように張りのあるブラス・セクション、ソプラノをメインにすえたさわやかなサックス群といったところか。ここにあるのは「フランコの」ではなく、まぎれもなく「シマロのO.K.ジャズ」である。

 マエストロ・アライにして「出所不明」といわしめた'MUYA' のみ、シマロではなく歌手シェケンの作品。音の感じからして'MAYA' とほぼおなじメンバーによる同時期のレコーディングか。じつはこの曲、87年にフランコが発表した'ATTENTION NA SIDA'「エイズにご用心」のB面に'NAPONI KAKA YO MAYIZO' のタイトルで再演されている("INTERPELLE LA SOCIETE DANS <ATTENTION NA SIDA>" (SONODISC CDS 6856)収録)が、出来としては断然こちらが上。

 名門ロッカ・マンボ出身で63年加入の“シェケン”Lola 'Checain' Djangi は、フランコ亡きあともシマロに付き従い92年に世を去るまでO.K.ジャズ一筋に生きてきた律儀者。きら星のごとく現れては消えていった歌手たちのなかにあってひたすら堅実に目立たない役割をコツコツこなしてきた男の一世一代の晴れ舞台が'MUYA' といえよう。
 「若い者には負けられん」と、少し鼻にかかったようなオヤジ声で必死に歌うさまは感涙もの。後半部のギターとホーンズの畳みかけるような分厚いアンサンブルはまさに圧巻だ。

 ラストの2曲は85年ブリュッセル録音。カルリートに加えて、ゲスト・ヴォーカルにアンピール・バクバのペペ・カレが参加。
 'VERRE CASSE'「割れたグラス」は、タイトルから想像つくように'MAYA' と同系の“ナルちゃん憲法”だ。カルリート、ペペ・カレの順に長いソロがあって、8分を過ぎるころになってようやくサビをデュエット。ソプラノ・サックスの間奏をはさんで、11分すぎにテーマに戻る。ここではヨーロッパ組の番頭格ジョスキーが歌い約13分の演奏は幕を閉じる。

 そして、'MAYA' セカンド・ヴァージョン。こちらは終始カルリートとペペ・カレのデュエットで歌われる。前にわたしは、「まったり感でベトベトになるのをすんでのところでとどめているのに'MAYA' の魅力がある」と分析したが、このセカンド・ヴァージョンについては一線を越えてしまっている。それに客寄せをねらったとしても、これら2曲にかんし、ペペ・カレを起用する必然性はまったく感じない。

 みてきたとおり、本盤の聴きどころはブラザヴィル録音の前半5曲であって、ラスト2曲は内容的には付け足しのようなもの。にもかかわらず、最初にCD化されたフラッシュ・ディフュージョン・ビジネス (FDB) 盤ではシマロとカルリートの前にペペ・カレの名が最初にあり、表紙の写真の扱いもいちばん大きかった。かつてグラン・サムライが国内配給したのがこのFDB 盤で、万事やっつけ仕事のアフリカにあっても飛び抜けてずさんなジャケット・デザインに、国内発売にあたって表紙をシマロの顔写真で覆い隠したほど。なるほど、このジャケではだれも買おうとは思わないわな。物好きなひとはマウスをジャケットの上に移動してみてください。

 92年発売のFDB 盤はレーベル消滅により廃盤になったが、98年に発売元ソルフェージュ、配給元ンゴヤルトでめでたく再発された。これが本盤。本来の主役シマロを表看板にした点は(あわせてジャケットがまともになったことも)評価できるとしても、FDB 盤同様、詳細なデータや解説がいっさいないというのは不親切きわまりない(日本語解説が付いていたFDB 盤のほうがずっとマシ)。
 これらの点を差し引いたとしても、本盤がコンゴ音楽に名をとどめる傑作であるにはちがいなく、そのくせ、すぐに入手できなくなる危険も高いので、早め早めに手を打っておくことをつよくおすすめしたい。

 なお、フランコ在世中にレコーディングされたシマロのソロ名義の音源集としては、ほかに"COEUR ARTIFICIEL"(BABI BOP 010)がある。
 全11曲中、タイトル曲'COEUR ARTIFICIEL' 以下はじめの4曲は、マディル・システムやマラージュのヴォーカルがフィーチャーされ、シンセやシンセ・ドラムが使われていることから、86年に発売されたLP"SPECIAL 30 ANS PAR LE POETE SIMARO ET LE GRAND MAITRE FRANCO""LE GRAND MAITRE FRANCO ET LE TOUT PUISSANT O.K.JAZZ"(ESPERANCE/SONODISC CD 8473)としてCD復刻)と同時期のセッションと思われる。フランコが参加していないだけで、'MAYA' セッション以上にTPOKジャズらしいゴージャスなサウンドに仕上がり聴き応え十分。

 5曲目以下は時代をぐっとさかのぼる。
 ギター、ベースと簡単な打楽器だけのシンプルな編成による'MI-AMOR' 'LISANO EBANDAKI NA KIN' は70年代後半か。名曲'MABELE (NTOTU)' は、こんななかから生まれてきたかと思いをはせた。
 残りの5曲は60年代後半とみている。このうち、'GE GE YOKA'とは前述の'G.G. YOKA'のことで、'DIS LAURENCE' とともに"1966/1967" で復刻済み。他の3曲はおそらく未復刻。
 これらは寄せ集めにはちがいないけれども、O.K.ジャズ・ファンには見逃すことができない貴重な音源集といえる。品切れが惜しまれる。


(1.8.05)
(1.11.05 加筆訂正)



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by Tatsushi Tsukahara